FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

スポンサーサイト スポンサー広告

遊廓街

 戦前、男たちは『遊廓』と呼ばれた色街で遊女や娼婦を相手に一時の快楽を楽しんだ。遊廓の歴史は古く江戸時代初期まで遡るが、現在、そうした街の大半がソープ街に変貌し、往時の面影はない。

遊廓街
※かつて遊廓があった所は大門という名がつく所が多い。

 しかし、今なお、遊廓時代のなごりを残しているところもある。それが一般に『新地』と呼ばれる街で、西日本に数多く見られる。

 大阪の飛田新地、松島新地、尼崎市のかんなみ新地、和歌山の天王新地、名はの栄町には、風情溢れる小料理屋や料亭、旅館風の建物が並び、客は軒先に立って女性の容姿を実際に見て選び、個室で遊ぶ。

 一方、横須賀の安浦、豊橋の有楽町、京都の五條楽園、生駒の宝山寺、大阪の滝井新地、今里新地、信太山新地、高知市の玉水町にも同じような建物が並んでいるが、肝心の女性は置屋に待機しているため、実際に見ることはできない。客引きのおばちゃんに好みを伝え、部屋に呼んでもらう趣向になっている。

飛田新地
※画像は飛田新地です。

 現在、遊女のような専業の女性はおらず、ごく普通の女性がアルバイト感覚で働いている、飛田新地には20代の若い子もいるが、一般的に30~40代の女性が主流だ。

 遊ぶ時間は15~30分と短く、料金も5000円~1万5000円程度。こうした街がちょんの間と呼ばれる由縁はここにある。

スポンサーサイト
FC2公認の男性用高額求人サイトが誕生!
稼ぎたい男子はここで仕事を探せ!
デリヘルもソープもイメクラも気に入った子がきっと見つかる
超大型リニューアル中の大好評風俗情報サイト!

遊廓街 遊廓街いまの姿

「赤線」、「青線」の誕生

 終戦後間もない1945年、政府は進駐軍兵士の毒牙から日本女性の操を守るため、花柳界代表にRAA(特殊慰安設備協会)を設立、国策として売春を斡旋していた。吉原などの遊廓は戦争で焼け出されていたが、進駐軍兵士には、そのRAAよりも好まれ、見事に復活を遂げている。
 
 そして、当局が政府公認の遊廓があった場所を地図上で赤線で囲い「赤線」、新宿花園町などの違法な売春地帯は青線で囲い「青線」と呼ぶようになる。

 東京の赤線地帯は、吉原・新宿2丁目・品川・千住・板橋・小岩・鳩の街そして、亀有などの16カ所。やり手婆や花魁(おいらん)が店先で佇んで待つ、現在のチョンの間のようなものだった。

「赤線」、「青線」の誕生 風俗の歴史

ストリップの誕生

 赤線・青線が一般化し始めた昭和22(1947)年、新宿「京都座」で、初のストリップ『ビーナスの誕生』が上演される。舞台に据え付けの大きな額縁の中で、乳房と腰を薄い布で隠した裸の女性が、ただポーズをとっただけの〝額縁ショー〟。動かなければ美術作品の裸婦像と同じ扱いだという、当局のお咎めを気にした演出家の思惑がそこにはあったとか。これが流行しだすと徐々に露出は激しくなり、全裸で踊ってもお咎めなしと見た劇場は、ますます過激にユーモラスに趣向を変えていく。そんな中、浅草には『常陸座』、『大都劇場』、『ロック座』が相次いで会館した。

 「確か最初は、演劇とかレビューの合間に踊ってたんだよ。オッパイも股間もまだ見せちゃいけなくてさ。次第にストリップ専門のところもできてきてね。伝統のアートっぽいのと、まな板ショーなんかの全裸をやるところと、二種類に別れたね。」(劇場関係者)

 舞台上でブランコに乗って魅せる〝ブランコショー〟、客席の真ん中にアーチの梯子(はしご)をかけて踊る〝立体ストリップ〟、風呂に入る〝入浴ショー〟、などなど…とにかく「際どく、楽しく、面白く」の三原則で一世を風靡した。まだヘアの露出は許されない時期のことである。
 『新宿セントラル』や『池袋アヴァンギャルド』などのストリップ専門劇場が増えていく一方で、『フランス座』や『ロック座』、『東洋絵劇場』などでは、幕間でコントが行われ、渥美清や萩本欽一、ビートたけしなどの、昭和を代表する喜劇人を輩出した。
 そして1960年、いよいよオールヌードの〝全スト〟が大阪を皮切りに始まり、70年代にストリップは、絵技術的な側面から、『白黒ショー』(男優と女優の本番)や『怪獣ショー』など、より過激な全露出路線を邁進し始めるのである。

ストリップの誕生 風俗の歴史

「売春防止法」の施行

 やがて遊廓は、占領軍の要請によって廃止されるが、花魁(おいらん)は「女給」と名前を変え、赤線は特殊飲食店に分類され存続したのである。

 昭和20年代後半まで、RAAや赤線からあぶれた女性は、街娼として街に溢れた。だが昭和31(1956)年の「売春防止法」の施行で赤線、青線は衰退の一途を辿る。

「戦後の当時は、相手を見つけるのにもなかなか苦労しましたから、みんな成人すると赤線に行って童貞を捨てたものですよ。青線は違法だったから、飲み屋という形をとって、そこのお姉ちゃんとの恋愛ってことで関係をもったんだよね。飲むだけでも気軽に行けたし、どこもかしこも安くて良かったみたいですよ。」(商店街店主)

 

「売春防止法」の施行 風俗の歴史

トルコ風呂、ピンサロ隆盛期

 ポスト赤線として風俗業界に現れたのが、トルコ風呂である。1956年の『売春防止法』で本番をする店が完全に廃止され、〝浴場〟として営業を始めたトルコ風呂。といっても、日本で初めてのトルコ風呂は、まだ赤線が全盛だった1951年、東銀座で開店した『東京温泉』が最初である。

「本番はしないけど、手でのヌキはしてくれてたね。50年代に入ってから本番のウワサもちらほらはあったけど。最初はホントにマッサージ風呂だったからなぁ。」(ストリップ劇場常連)

 当初のトルコ風呂は、浴室内でトルコ嬢が背中を流し、マッサージをするというマッサージ風呂だったが、それだけでは終わらなかったというわけだ。
 「スパシャル」といわれた男性器を指で刺激するサービス、「ダブル」という相互に性器を刺激しあうサービス、果ては、舌で肉体を刺激する「ナメクジ」、男性1人に対して2人のトルコ嬢が責める「二輪車」など、トルコ特有の呼び名と技が生まれた。
 売春防止法に対応して進出したのは、トルコ風呂ばかりではない。ピンク喫茶やゴーゴークラブなどのソフトアダルトの類いができたのもこの時期。

「喫茶店として認可が下りているお店で、露出の激しい女性が給仕をしてくれるんです。ゴーゴークラブの場合は、女の子がトップレスでお立ち台の上で踊り、キャバクラのように接待してくれるんですよ。」(のぞき部屋店員)

 この手のソフト路線は、基本的にお触りはナシで見るだけが常套だったが、昭和40年代(1956~)に過激さを増し、トップレス、ノーパン喫茶、さらにはのぞき部屋にまで派生。1970年代中盤から相互にお触りをしたり、女性が何人も回転する花びら回転のピンクサロンへと行き着く。

「ピンサロは当時、僕らの間では『ハッスルキャバレー』と言われて、毎日がお祭りのような景気の良いサービスをするのが売りでした。他の風俗とは一線を画す、従業員にとっても誇り高い仕事だったんですよ」(ピンクサロン経営者)

 一方、トルコ風呂は、1980年代に「国にとって不名誉な名称なので、改めて欲しい。」と、トルコ人によって訴えられ、業界団体は名称を「ソープランド」に変更。
 80年代に入ると「マントル」や「ホテトル」も急増、素人売春の愛人バンクやデートクラブなども出現し、性産業はますます膨張していった。

トルコ風呂、ピンサロ隆盛期 風俗の歴史

新風営法施行後の風俗

 1985年、「新風営法」が施行。届け出のない店舗の多くが検挙、廃業に追い込まれた。「売春防止法」、「新風営法」など、それまでは当局の締め付けにより、路線変更をよぎなくされた風俗業界だが、1987年に起きたエイズ問題は、法律とは関係のないところで起きた初めての大きな痛手てあった。

「特にソープはきつかったですよね。85年の『新風営法』の施行とのダブルパンチで、もう全国的に休業状態でしたから。」(歌舞伎町ファッションヘルス経営者)

 これに対して、安全性を売りに進出してきたのが、個室型のファッションヘルス。もともとノーパン喫茶やのぞき部屋だった店舗が、法改正を機に風俗としての届け出をし、〝キス〟〝フェラ〟〝スマタ〟などの粘膜接触を全て回避した手コキ特化のサービスでエイズ問題を克服したのだ。

「ウチみたいな安全なヘルスが繁盛したことで、同じタイプの店がたくさんできたんですけど。中には無届けの性感ヘルスもありました。やはり客はなかなか寄り付かなかったようですが。」(同経営者)

 ちょうど、この頃テレクラも全国的に乱立、愛人バンクに代わる素人女性との出会いの場として、認知されていく。
 平成になるとテレクラの人気にあやかってか、ダイヤルQ2が増え、未成年者の利用が社会問題になった。
 ソープは安くて美味い他の風俗に押され、衰退の一途を辿り、コスチュームプレイで女性が受け身でプレイするイメクラ、アナルマッサージを主体とする正看へルスが全盛期を迎えた。

「性感ヘルスとか、イメクラっていうのは、風営法以降にできた店舗型風俗で、正確には許可店ではなかったですよね。でもそれが長いこと放置されてきた。最近の取り締まりはその跳ね返りですからね…。」(風俗ライター)

 また、外個人の立ちんぼ増え、売春ツアーなど、とどまることを知らない男たちの性欲は海外へも向けられるようになった。
 一方で、ブルセラショップ、カップル喫茶、ハプニングバーなど素人系のマニアックな傾向が強くなり、それに答えるべく、アダルト産業のメディアへの流出も顕著になっていったのである。

 90年代も中盤を迎えると、インターネット環境が必需となる。国民的アイドルの宮沢りえがヘアヌード写真集を出したことに象徴されるように、女性が人前で〝脱ぐ〟ことの価値観や、ひいては、日本のアダルト基準を変えた。
 
 90年代後半には、援助交際が流行り社会現象に。

「昔は、風俗店で働く娘っていうのは、借金を抱えているとか、何かワケ有りの娘が多かったけど、ここ10年では、ただ働く気が無いとか、お金がたくさん欲しいっていう娘が増えましたね。」(歌舞伎町ファッションヘルス経営者)

 世紀末を前にして、立ちんぼやチョンの間、エステなどの裏風俗が乱立。

 2000年になると、素人系の流行がさらに増長し、イメクラやヘルスでも素人を売りにする店が増える。ITの台頭でアキバ系のコスプレやドールヘルスなどという変わり種も性感の亜種として増加。
 携帯やパソコンを介したネット産業は、全盛界に渡って浸透し、テレクラに変わって出会い系サイトが時代の潮流を作り始めた。

「援助交際は、淫行条例でだいぶ街からなくなってはいるものの、出会い系サイトではまだまだ暗躍してますよ。援助希望の書き込みは本当に多い」(某出会い系サイト運営者)

 十代の性が荒れていく一方で、政府は04年、チョンの間や立ちんぼの一斉検挙に乗り出す。都内をはじめとする各所の裏風俗が、完全に廃絶。続いて、歌舞伎町や池袋の性感やイメクラも次々に閉店へと追い込まれた。デリバリーに移行して対応しようとした業者側の狙いを打ち消すかの如く、06年5月1日には新風営法が改正。外国人や無店舗型風俗(デリヘル)に対する締め付けも厳しくなった。

「要するに85年の時と一緒ですね。ただ、今回は前回よりも厳しいので、半端な店は潰れていきますよ」(風俗ライター)

 その点、85年にすでに許可を得ている店は余裕で構える。法律への対応への仕方も心得ているし、男性が求める絶対の性的条件を知り尽くしているというわけだ。
 今まで人気を博してきた、無届けの性感やデリヘルが無くなっていくとすると、改めて見直されるのは、老舗風俗ということになる。

新風営法施行後の風俗 風俗の歴史

のぞき部屋

 「のぞき部屋」は、1981年に大阪のミナミに登場したのが最初。全面鏡張りの円形の舞台を囲む小部屋の客が、小窓から舞台の舞台のヌードを鑑賞。チップしだいで、タッチをできた。料金も安く、壁を一枚隔てたスリリングな覗き見感が人気となったのだ。

「あの狭い個室といい、エロい音楽といい、普通の風俗では絶対に得られない恍惚感を醸し出してくれるんだよね。自慰をするのに最適な条件が全て揃っているんだよ。しかも衛生面でも安心だから、入ってくる女の子も質がいいんだよね。」(風俗ライター)


のぞき部屋 昔ながらの風俗

ピンクサロン

 ピンサロの歴史は意外と古く、キャバレー全盛の時代の1960年前後に現れたピンクキャバレーやネグリジェサロンが始まりとされている。お触りパブのようなサービスに、次第にヌキが足されていったのだ。

「70年代に台頭してきて、85年前後に大ブームになるんですよ。花びら回転とマンツーマンっていうのがってね、花びら回転は女の子がどんどん変わって、時間内なら何回でもヌケる。店内も景気の良い場内アナウンスが流れて粋なんですね。あの、女の子がバタバタ店内を走り回る活気のある感じが良かったな~。ヌキにかけるグループ感があるんですよね。」(風俗ライター)

ピンクサロン 昔ながらの風俗

ストリップ劇場

 ストリップは1960年代にまな板ショー路線と、レビュー系の美を追究する路線に別れていく。大阪からやってきたまな板ショー路線は、過激さを増し、「愛の個室」と呼ばれる、ショーのあとに踊り子とお楽しみができる別室までできるようになり、70年代に全盛期を迎える。が、たびたび当局のお咎めを受け、80年代には衰退。
 一方で、ショー路線の劇場は、90年代前半からAVの時代を迎え、愛染恭子や桜木ルイ、小林ひとみなどのAVスターがストリッパーへと転向、生でAVアイドルのショーが見られるとあって、勢いを取り戻していく。

ストリップ劇場 昔ながらの風俗

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。