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遊廓街

 戦前、男たちは『遊廓』と呼ばれた色街で遊女や娼婦を相手に一時の快楽を楽しんだ。遊廓の歴史は古く江戸時代初期まで遡るが、現在、そうした街の大半がソープ街に変貌し、往時の面影はない。

遊廓街
※かつて遊廓があった所は大門という名がつく所が多い。

 しかし、今なお、遊廓時代のなごりを残しているところもある。それが一般に『新地』と呼ばれる街で、西日本に数多く見られる。

 大阪の飛田新地、松島新地、尼崎市のかんなみ新地、和歌山の天王新地、名はの栄町には、風情溢れる小料理屋や料亭、旅館風の建物が並び、客は軒先に立って女性の容姿を実際に見て選び、個室で遊ぶ。

 一方、横須賀の安浦、豊橋の有楽町、京都の五條楽園、生駒の宝山寺、大阪の滝井新地、今里新地、信太山新地、高知市の玉水町にも同じような建物が並んでいるが、肝心の女性は置屋に待機しているため、実際に見ることはできない。客引きのおばちゃんに好みを伝え、部屋に呼んでもらう趣向になっている。

飛田新地
※画像は飛田新地です。

 現在、遊女のような専業の女性はおらず、ごく普通の女性がアルバイト感覚で働いている、飛田新地には20代の若い子もいるが、一般的に30~40代の女性が主流だ。

 遊ぶ時間は15~30分と短く、料金も5000円~1万5000円程度。こうした街がちょんの間と呼ばれる由縁はここにある。

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遊廓街 遊廓街いまの姿

「赤線」、「青線」の誕生

 終戦後間もない1945年、政府は進駐軍兵士の毒牙から日本女性の操を守るため、花柳界代表にRAA(特殊慰安設備協会)を設立、国策として売春を斡旋していた。吉原などの遊廓は戦争で焼け出されていたが、進駐軍兵士には、そのRAAよりも好まれ、見事に復活を遂げている。
 
 そして、当局が政府公認の遊廓があった場所を地図上で赤線で囲い「赤線」、新宿花園町などの違法な売春地帯は青線で囲い「青線」と呼ぶようになる。

 東京の赤線地帯は、吉原・新宿2丁目・品川・千住・板橋・小岩・鳩の街そして、亀有などの16カ所。やり手婆や花魁(おいらん)が店先で佇んで待つ、現在のチョンの間のようなものだった。

「赤線」、「青線」の誕生 風俗の歴史

ストリップの誕生

 赤線・青線が一般化し始めた昭和22(1947)年、新宿「京都座」で、初のストリップ『ビーナスの誕生』が上演される。舞台に据え付けの大きな額縁の中で、乳房と腰を薄い布で隠した裸の女性が、ただポーズをとっただけの〝額縁ショー〟。動かなければ美術作品の裸婦像と同じ扱いだという、当局のお咎めを気にした演出家の思惑がそこにはあったとか。これが流行しだすと徐々に露出は激しくなり、全裸で踊ってもお咎めなしと見た劇場は、ますます過激にユーモラスに趣向を変えていく。そんな中、浅草には『常陸座』、『大都劇場』、『ロック座』が相次いで会館した。

 「確か最初は、演劇とかレビューの合間に踊ってたんだよ。オッパイも股間もまだ見せちゃいけなくてさ。次第にストリップ専門のところもできてきてね。伝統のアートっぽいのと、まな板ショーなんかの全裸をやるところと、二種類に別れたね。」(劇場関係者)

 舞台上でブランコに乗って魅せる〝ブランコショー〟、客席の真ん中にアーチの梯子(はしご)をかけて踊る〝立体ストリップ〟、風呂に入る〝入浴ショー〟、などなど…とにかく「際どく、楽しく、面白く」の三原則で一世を風靡した。まだヘアの露出は許されない時期のことである。
 『新宿セントラル』や『池袋アヴァンギャルド』などのストリップ専門劇場が増えていく一方で、『フランス座』や『ロック座』、『東洋絵劇場』などでは、幕間でコントが行われ、渥美清や萩本欽一、ビートたけしなどの、昭和を代表する喜劇人を輩出した。
 そして1960年、いよいよオールヌードの〝全スト〟が大阪を皮切りに始まり、70年代にストリップは、絵技術的な側面から、『白黒ショー』(男優と女優の本番)や『怪獣ショー』など、より過激な全露出路線を邁進し始めるのである。

ストリップの誕生 風俗の歴史

「売春防止法」の施行

 やがて遊廓は、占領軍の要請によって廃止されるが、花魁(おいらん)は「女給」と名前を変え、赤線は特殊飲食店に分類され存続したのである。

 昭和20年代後半まで、RAAや赤線からあぶれた女性は、街娼として街に溢れた。だが昭和31(1956)年の「売春防止法」の施行で赤線、青線は衰退の一途を辿る。

「戦後の当時は、相手を見つけるのにもなかなか苦労しましたから、みんな成人すると赤線に行って童貞を捨てたものですよ。青線は違法だったから、飲み屋という形をとって、そこのお姉ちゃんとの恋愛ってことで関係をもったんだよね。飲むだけでも気軽に行けたし、どこもかしこも安くて良かったみたいですよ。」(商店街店主)

 

「売春防止法」の施行 風俗の歴史

トルコ風呂、ピンサロ隆盛期

 ポスト赤線として風俗業界に現れたのが、トルコ風呂である。1956年の『売春防止法』で本番をする店が完全に廃止され、〝浴場〟として営業を始めたトルコ風呂。といっても、日本で初めてのトルコ風呂は、まだ赤線が全盛だった1951年、東銀座で開店した『東京温泉』が最初である。

「本番はしないけど、手でのヌキはしてくれてたね。50年代に入ってから本番のウワサもちらほらはあったけど。最初はホントにマッサージ風呂だったからなぁ。」(ストリップ劇場常連)

 当初のトルコ風呂は、浴室内でトルコ嬢が背中を流し、マッサージをするというマッサージ風呂だったが、それだけでは終わらなかったというわけだ。
 「スパシャル」といわれた男性器を指で刺激するサービス、「ダブル」という相互に性器を刺激しあうサービス、果ては、舌で肉体を刺激する「ナメクジ」、男性1人に対して2人のトルコ嬢が責める「二輪車」など、トルコ特有の呼び名と技が生まれた。
 売春防止法に対応して進出したのは、トルコ風呂ばかりではない。ピンク喫茶やゴーゴークラブなどのソフトアダルトの類いができたのもこの時期。

「喫茶店として認可が下りているお店で、露出の激しい女性が給仕をしてくれるんです。ゴーゴークラブの場合は、女の子がトップレスでお立ち台の上で踊り、キャバクラのように接待してくれるんですよ。」(のぞき部屋店員)

 この手のソフト路線は、基本的にお触りはナシで見るだけが常套だったが、昭和40年代(1956~)に過激さを増し、トップレス、ノーパン喫茶、さらにはのぞき部屋にまで派生。1970年代中盤から相互にお触りをしたり、女性が何人も回転する花びら回転のピンクサロンへと行き着く。

「ピンサロは当時、僕らの間では『ハッスルキャバレー』と言われて、毎日がお祭りのような景気の良いサービスをするのが売りでした。他の風俗とは一線を画す、従業員にとっても誇り高い仕事だったんですよ」(ピンクサロン経営者)

 一方、トルコ風呂は、1980年代に「国にとって不名誉な名称なので、改めて欲しい。」と、トルコ人によって訴えられ、業界団体は名称を「ソープランド」に変更。
 80年代に入ると「マントル」や「ホテトル」も急増、素人売春の愛人バンクやデートクラブなども出現し、性産業はますます膨張していった。

トルコ風呂、ピンサロ隆盛期 風俗の歴史

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